渦巻く知識

人生には標が必要である。
人は自らの心を自由に解き放つ時、必ず自身の標を頼る。
標なく求められる自由は専ら秩序への反抗であり、その行為の先にあるのは単なる混沌である。

人は何者にかならなくてはならない。その為に必要なのは標である。
自らを由とする時、必ずしもそれは秩序への反抗でなくてはならないのではない。秩序への帰属も又自由は包括する。

既存の体制を否定するのは必ずしも自由に拠るのではない。
社会に対して、体制に対して自由を求める者は必ずしも自由を求める者ではない。彼らの内には多数の『新たな支配』を求める者が介在する。
現状の打破を即ち自由と捉える者は多い。『新たな支配』を求める者らはこの「自由」を標榜し、彼らを自らの勢力へと巻き込む。こうして自由の荒廃が始まる。

拠り所を求める者たちはこの「体制」と「新たな支配」との終わりなき戦いに辟易する。そうして遂には自身の手で自由とは全く別の道を選択する。
彼らは口々に言うだろう。
「我々が求めていたものはこれではない」
と。
彼らは口々に言うだろう。
「彼奴らのせいで我々はこうするしかなかった」
と。
そうして彼らの口からは自らが何者であるかを述べる言葉は出てこないだろう。
彼らは標を持たず、又何者でもないからである。

『自らを由とせよ
是、世の真なり』

我々が求めるべきは先ず、自分自身の標である。
標としての言葉である。